冤罪マップ

菅生事件

匿名(日本共産党員5名)

冤罪無罪確定

1952年6月2日午前0時半ごろ、大分県直入郡菅生村(現・竹田市菅生)の駐在所が、瓶入りのダイナマイトによって爆破される事件が発生した。事件直後、現場付近を歩いていた日本共産党員2人(後藤秀生氏ら)が現行犯逮捕され、さらに仲間の党員3人も逮捕された。計5人は爆発物取締罰則違反で起訴された。

事件には当初から不審な点があった。人口わずか350戸ほどの寒村に、事件前から100人を超える警察官が周辺に配置され、新聞記者も待機していた。駐在所に住む警察官はいつでも出勤できるよう長靴を履いており、その妻も「今夜駐在所が爆破される」ことを知らされていたとされる。また、事件の約3か月前から菅生村に現れ、製材所で働きながら共産党員らと行動を共にし、事件当夜に地元の共産党員らを駐在所付近の中学校におびき出したうえで、事件後に行方をくらました「市木春秋」と名乗る人物の存在が、後に大きな焦点となった。

一審の大分地裁は、被告人らの「共産党弾圧のためのでっち上げだ」との無実の訴えを退け、1955年、5人全員に有罪判決を言い渡した。しかし被告弁護団(清源敏孝弁護士が主任)は控訴審係属中も「市木春秋」の正体究明を続け、大分新聞・大分合同新聞の記者2人が独自に取材を進めた結果、1956年11月末、「市木」の正体が国家地方警察大分県本部警備課の巡査部長・戸高公徳であることを実名付きでスクープ報道した。1957年には共同通信社の特捜班が東京に潜伏していた戸高を突き止めて追跡取材し、毎日新聞も戸高が国家地方警察本部(現・警察庁)警備課に勤務していることを報じるなど、大分の地方紙・在京紙・通信社・放送局が競い合うように取材を重ねた。この一連の報道は、日本における調査報道の草分けとして、1958年の第1回日本ジャーナリスト会議大賞を受賞している。

戸高本人が出廷して証言したことで、自らダイナマイトを運搬し、共産党員に見せかけた駐在所宛の脅迫文を作成していたことなどが明らかになった。法務大臣や国家公安委員長も、戸高が日本共産党への「潜入捜査」に従事していたことを認めた。1958年6月13日、福岡高裁は一審判決を破棄し、駐在所爆破の点について被告人全員に無罪を言い渡した(なお、ダイナマイトの不法所持等の別件については3人が有罪とされた部分もある)。1960年、最高裁でも無罪が確定した。

一方、爆発物運搬という行為自体が問われた戸高本人の刑事責任については、一審は潜入捜査官としての職責上「期待可能性がない」として無罪としたが、二審は有罪と判断しつつ、上司への報告が自首にあたるとして刑を免除した。戸高はその後も警察官を続け、警察大学校の教官や警察共済組合の幹部を経て、ノンキャリア組の限界とされる警視長まで昇任した。

本件は、公安警察が政治的な取締目的のために自ら事件を作出(自作自演)し、無関係の市民を犯人に仕立て上げた、戦後日本を代表する謀略・冤罪事件の一つである。血のメーデー事件と同じ1952年に発生しており、朝鮮戦争下の「逆コース」・レッドパージという時代背景のもとで、日本共産党弾圧の一環として引き起こされた。

逮捕年
1952
解決年
1960
期間
8年
確定判決
爆発物取締罰則違反で起訴 → 一審:有罪(大分地裁、1955年)→ 控訴審:無罪(1958年6月13日、福岡高裁)→ 上告審:上告棄却・無罪確定(1960年、最高裁)
都道府県
大分県
地域
九州・沖縄
捜査機関
国家地方警察大分県本部
時代
現代
刑事手続き進行度
捜査
逮捕
起訴
一審
控訴審
上告審
!
確定
服役
再審
逮捕起訴一審有罪控訴審無罪確定控訴審で無罪
通過有罪等無罪等進行中

1952年6月2日午前0時半ごろ、大分県直入郡菅生村(現・竹田市菅生)の駐在所が、瓶入りのダイナマイトによって爆破される事件が発生した。事件直後、現場付近を歩いていた日本共産党員2人(後藤秀生氏ら)が現行犯逮捕され、さらに仲間の党員3人も逮捕された。計5人は爆発物取締罰則違反で起訴された。 事件には当初から不審な点があった。人口わずか350戸ほどの寒村に、事件前から100人を超える警察官が周辺に配置され、新聞記者も待機していた。駐在所に住む警察官はいつでも出勤できるよう長靴を履いており、その妻も「今夜駐在所が爆破される」ことを知らされていたとされる。また、事件の約3か月前から菅生村に現れ、製材所で働きながら共産党員らと行動を共にし、事件当夜に地元の共産党員らを駐在所付近の中学校におびき出したうえで、事件後に行方をくらました「市木春秋」と名乗る人物の存在が、後に大きな焦点となった。 一審の大分地裁は、被告人らの「共産党弾圧のためのでっち上げだ」との無実の訴えを退け、1955年、5人全員に有罪判決を言い渡した。しかし被告弁護団(清源敏孝弁護士が主任)は控訴審係属中も「市木春秋」の正体究明を続け、大分新聞・大分合同新聞の記者2人が独自に取材を進めた結果、1956年11月末、「市木」の正体が国家地方警察大分県本部警備課の巡査部長・戸高公徳であることを実名付きでスクープ報道した。1957年には共同通信社の特捜班が東京に潜伏していた戸高を突き止めて追跡取材し、毎日新聞も戸高が国家地方警察本部(現・警察庁)警備課に勤務していることを報じるなど、大分の地方紙・在京紙・通信社・放送局が競い合うように取材を重ねた。この一連の報道は、日本における調査報道の草分けとして、1958年の第1回日本ジャーナリスト会議大賞を受賞している。 戸高本人が出廷して証言したことで、自らダイナマイトを運搬し、共産党員に見せかけた駐在所宛の脅迫文を作成していたことなどが明らかになった。法務大臣や国家公安委員長も、戸高が日本共産党への「潜入捜査」に従事していたことを認めた。1958年6月13日、福岡高裁は一審判決を破棄し、駐在所爆破の点について被告人全員に無罪を言い渡した(なお、ダイナマイトの不法所持等の別件については3人が有罪とされた部分もある)。1960年、最高裁でも無罪が確定した。 一方、爆発物運搬という行為自体が問われた戸高本人の刑事責任については、一審は潜入捜査官としての職責上「期待可能性がない」として無罪としたが、二審は有罪と判断しつつ、上司への報告が自首にあたるとして刑を免除した。戸高はその後も警察官を続け、警察大学校の教官や警察共済組合の幹部を経て、ノンキャリア組の限界とされる警視長まで昇任した。 本件は、公安警察が政治的な取締目的のために自ら事件を作出(自作自演)し、無関係の市民を犯人に仕立て上げた、戦後日本を代表する謀略・冤罪事件の一つである。血のメーデー事件と同じ1952年に発生しており、朝鮮戦争下の「逆コース」・レッドパージという時代背景のもとで、日本共産党弾圧の一環として引き起こされた。

事件発生
1952
被告人
匿名(日本共産党員5名)
判決
爆発物取締罰則違反で起訴 → 一審:有罪(大分地裁、1955年)→ 控訴審:無罪(1958年6月13日、福岡高裁)→ 上告審:上告棄却・無罪確定(1960年、最高裁)
現在のステータス
無罪確定
冤罪の原因
思想弾圧、証拠捏造

タイムライン

事件不利有利手続事後
1952.06.02駐在所爆破・現行犯逮捕

大分県直入郡菅生村の駐在所が瓶入りダイナマイトで爆破された。事件前から100人を超える警察官が周辺に配置され、新聞記者も待機していた。現場付近にいた日本共産党員2人が現行犯逮捕され、さらに仲間の党員3人も逮捕、計5人が爆発物取締罰則違反で起訴された。

1952.08.27大分地裁で公判開始

大分地方裁判所での公判が開始。被告人らは「共産党弾圧のためのでっち上げだ」として無実を訴えた。

1955一審・大分地裁が有罪判決

大分地裁は5人全員に有罪判決を言い渡した。判決の具体的な言渡し日・量刑は未確認。

1956.11地方紙が「市木春秋」の正体をスクープ

被告弁護団の調査に協力していた大分新聞・大分合同新聞の記者が、事件前に共産党員らに接近し行方をくらました「市木春秋」の正体が、国家地方警察大分県本部警備課の巡査部長・戸高公徳であることを実名付きでスクープ報道した。

1957.03.13毎日新聞が戸高の所在を報道

共同通信社の特捜班が東京に潜伏していた戸高を突き止めて追跡取材する中、毎日新聞は戸高が国家地方警察本部(現・警察庁)警備課に勤務していると報じた。

1958.06.13控訴審・福岡高裁が逆転無罪判決

福岡高裁は一審判決を破棄し、駐在所爆破の点について被告人全員に無罪を言い渡した。出廷した戸高本人の証言により、自らダイナマイトを運搬し脅迫文を作成していたことが明らかになった。

1960最高裁で無罪確定

最高裁で上告が棄却され、無罪が確定した。逮捕から約8年が経過していた。

参考リンク

百科事典菅生事件Wikipedia
百科事典菅生事件コトバンク(日本大百科全書)

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