血のメーデー事件
被告人261名(起訴時)
GHQによる占領解除から3日後の1952年5月1日、第23回中央メーデーが皇居外苑周辺で開催された。大会は「再軍備反対」と「人民広場(皇居前広場)の開放」を決議しており、デモ行進の終了後、日比谷公園で解散した群衆のうち、全学連と左翼系青年団体員に先導された朝鮮人・日雇い労務者ら市民約2500人が、無届デモとして皇居前広場へなだれ込んだ。
デモ隊は駐留米軍人所有の自動車に投石して次々と窓ガラスを破壊しながら北上し、皇居前広場では警備の警察部隊に投石。警察官が袋叩きにされ拳銃を奪われる事態も発生した。警察側は催涙弾・拳銃を使用して鎮圧にあたり、祝田橋では警察官4名が包囲され角棒で乱打されて濠に投げ込まれるなど、双方に激しい暴力の応酬があった。外国人所有の自動車14台が横転させられ放火・炎上した。事態が収束したのは午後6時過ぎで、デモ隊側死者1名(法政大学文学部哲学科3年生・近藤巨士。頭部打撲の後遺症により5月6日死亡)、警察側負傷者832名(うち重傷71名)、デモ隊側負傷者約200名という、戦後の学生運動として初の死者を出す惨事となった。
デモ隊から1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受けて起訴された。検察・弁護側の対立が激しく審理は長期化し、1953年2月4日の初公判から実に1792回の公判が重ねられ、証人は検察側570人・弁護側358人にのぼる、日本の刑事裁判史上でも記録的な長期審理となった。
1970年1月28日、東京地裁は騒擾罪の一部成立を認める判決を言い渡した。しかし1972年11月21日、東京高裁(荒川正三郎裁判長)は控訴審で騒擾罪の適用そのものを破棄し、16名について暴力行為等処罰法違反の有罪を認めたものの、それ以外の被告についてはいずれも無罪とした。検察側は上告を断念し、事件発生から実に20年半を経てこの判決が確定した。
本件は、騒擾罪という重い罪状での大量起訴が最終的にはほとんど適用できないと判断され、被告のほとんどが無罪となった一方、一部には暴力行為等の有罪が確定するという、被告により結果が大きく分かれた事件である。元被告の中には、後に生物学者となった伊藤嘉昭氏や中国文学者となった丸山昇氏らがおり、弁護人には後に衆議院議員となる松本善明弁護士や、作家の阿部知二氏(知人の被告のための特別弁護人として出廷)らが名を連ねた。
GHQによる占領解除から3日後の1952年5月1日、第23回中央メーデーが皇居外苑周辺で開催された。大会は「再軍備反対」と「人民広場(皇居前広場)の開放」を決議しており、デモ行進の終了後、日比谷公園で解散した群衆のうち、全学連と左翼系青年団体員に先導された朝鮮人・日雇い労務者ら市民約2500人が、無届デモとして皇居前広場へなだれ込んだ。 デモ隊は駐留米軍人所有の自動車に投石して次々と窓ガラスを破壊しながら北上し、皇居前広場では警備の警察部隊に投石。警察官が袋叩きにされ拳銃を奪われる事態も発生した。警察側は催涙弾・拳銃を使用して鎮圧にあたり、祝田橋では警察官4名が包囲され角棒で乱打されて濠に投げ込まれるなど、双方に激しい暴力の応酬があった。外国人所有の自動車14台が横転させられ放火・炎上した。事態が収束したのは午後6時過ぎで、デモ隊側死者1名(法政大学文学部哲学科3年生・近藤巨士。頭部打撲の後遺症により5月6日死亡)、警察側負傷者832名(うち重傷71名)、デモ隊側負傷者約200名という、戦後の学生運動として初の死者を出す惨事となった。 デモ隊から1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受けて起訴された。検察・弁護側の対立が激しく審理は長期化し、1953年2月4日の初公判から実に1792回の公判が重ねられ、証人は検察側570人・弁護側358人にのぼる、日本の刑事裁判史上でも記録的な長期審理となった。 1970年1月28日、東京地裁は騒擾罪の一部成立を認める判決を言い渡した。しかし1972年11月21日、東京高裁(荒川正三郎裁判長)は控訴審で騒擾罪の適用そのものを破棄し、16名について暴力行為等処罰法違反の有罪を認めたものの、それ以外の被告についてはいずれも無罪とした。検察側は上告を断念し、事件発生から実に20年半を経てこの判決が確定した。 本件は、騒擾罪という重い罪状での大量起訴が最終的にはほとんど適用できないと判断され、被告のほとんどが無罪となった一方、一部には暴力行為等の有罪が確定するという、被告により結果が大きく分かれた事件である。元被告の中には、後に生物学者となった伊藤嘉昭氏や中国文学者となった丸山昇氏らがおり、弁護人には後に衆議院議員となる松本善明弁護士や、作家の阿部知二氏(知人の被告のための特別弁護人として出廷)らが名を連ねた。
- 事件発生
- 1952年
- 被告人
- 被告人261名(起訴時)
- 判決
- 一部有罪→大半無罪
- 現在のステータス
- 無罪確定
- 冤罪の原因
- 思想弾圧
タイムライン
第23回中央メーデー後、日比谷公園で解散した群衆のうち約2500人が無届デモとして皇居前広場へなだれ込み、警察部隊と衝突。双方に激しい暴力の応酬があり、外国人所有の自動車14台が放火・炎上した。
当日から現場周辺で検挙が進み、デモ隊から計1232名が逮捕された。うち261名がのちに騒擾罪の適用を受けて起訴された。
法政大学文学部哲学科3年生の近藤巨士が、頭部打撲の後遺症により死亡。警察側負傷者832名(うち重傷71名)、デモ隊側負傷者約200名。
東京地裁で初公判。以後1792回の公判が重ねられ、証人は検察側570人・弁護側358人にのぼる記録的な長期審理となった。
東京地裁が騒擾罪の一部成立を認める判決を言い渡した。初公判から17年が経過していた。
東京高裁(荒川正三郎裁判長)が騒擾罪の適用そのものを破棄。16名に暴力行為等処罰法違反の有罪を認めたほかは、いずれも無罪とした。
東京高検が上告を断念し、控訴審判決が確定した。事件発生から20年半が経過していた。