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弘前大学教授夫人殺し事件

那須隆(なす たかし)

1949年8月6日深夜、青森県弘前市で弘前医科大学教授・松永藤雄の妻Sが寄宿先の離れで刺殺された事件。弘前市警は捜査が難航する中、事件現場付近に住む那須隆(当時25歳)を容疑者と断定。那須は一貫して無実を主張したがアリバイがなく、殴る蹴るの拷問や別件逮捕を含む長期拘束を経て起訴された。有罪の決め手は、那須の白シャツに付着した血痕がSと同じ血液型であるとする一連の血痕鑑定であった。特に東京大学の古畑種基教授はベイズの定理を用いて「98.5%の確率でSの血液」と結論したが、この計算には那須が犯人である蓋然性を最初から50%と仮定するなどの循環論法が含まれていた。一審の青森地裁弘前支部は1951年に無罪としたが理由を一切説明せず、控訴審の仙台高裁は古畑鑑定を全面的に採用し1952年に懲役15年を言い渡した。那須は10年間服役し、仮釈放の面接で犯行を否認し続けたため6回却下された末、7回目で仮釈放。1971年、事件当時の知人であった男Xが真犯人として名乗り出た。Xの証言は現場検証で、改築前の廊下の幅や20年間誰も知らなかった井戸の位置を正確に指摘するなど客観的証拠と高度に一致した。1975年の白鳥決定で再審の門が広がり、1977年の再審判決では白シャツの血痕について「押収された当時には、もともと血痕は附着していなかったのではないか」と証拠捏造を強く示唆し、那須に無罪を言い渡した。しかし、その後の国家賠償訴訟では一審で検察官の過失が認められたものの、控訴審で逆転全面敗訴、最高裁も棄却。警察・検察・裁判所のいずれからも謝罪はなかった。那須は2008年1月24日、「私が死んでも、誰にも知らせないで欲しい」と言い遺して84歳で死去。刑事補償の1399万円は亡父の墓代と裁判費用で全て消えた。現行刑事訴訟法下の殺人事件で最初の再審無罪事件。

逮捕年
1949
無罪確定年
1977
期間
28年
確定判決
懲役15年→再審無罪
都道府県
青森県
地域
東北
捜査機関
青森県警
時代
現代
刑事手続き進行度
捜査
逮捕
起訴
一審
控訴審
上告審
確定
服役
再審
逮捕起訴一審有罪確定服役再審無罪
通過有罪等無罪等進行中

1949年8月6日深夜、青森県弘前市で弘前医科大学教授・松永藤雄の妻Sが寄宿先の離れで刺殺された事件。弘前市警は捜査が難航する中、事件現場付近に住む那須隆(当時25歳)を容疑者と断定。那須は一貫して無実を主張したがアリバイがなく、殴る蹴るの拷問や別件逮捕を含む長期拘束を経て起訴された。有罪の決め手は、那須の白シャツに付着した血痕がSと同じ血液型であるとする一連の血痕鑑定であった。特に東京大学の古畑種基教授はベイズの定理を用いて「98.5%の確率でSの血液」と結論したが、この計算には那須が犯人である蓋然性を最初から50%と仮定するなどの循環論法が含まれていた。一審の青森地裁弘前支部は1951年に無罪としたが理由を一切説明せず、控訴審の仙台高裁は古畑鑑定を全面的に採用し1952年に懲役15年を言い渡した。那須は10年間服役し、仮釈放の面接で犯行を否認し続けたため6回却下された末、7回目で仮釈放。1971年、事件当時の知人であった男Xが真犯人として名乗り出た。Xの証言は現場検証で、改築前の廊下の幅や20年間誰も知らなかった井戸の位置を正確に指摘するなど客観的証拠と高度に一致した。1975年の白鳥決定で再審の門が広がり、1977年の再審判決では白シャツの血痕について「押収された当時には、もともと血痕は附着していなかったのではないか」と証拠捏造を強く示唆し、那須に無罪を言い渡した。しかし、その後の国家賠償訴訟では一審で検察官の過失が認められたものの、控訴審で逆転全面敗訴、最高裁も棄却。警察・検察・裁判所のいずれからも謝罪はなかった。那須は2008年1月24日、「私が死んでも、誰にも知らせないで欲しい」と言い遺して84歳で死去。刑事補償の1399万円は亡父の墓代と裁判費用で全て消えた。現行刑事訴訟法下の殺人事件で最初の再審無罪事件。

事件発生
1949
被告人
那須隆(なす たかし)
判決
懲役15年→再審無罪
現在のステータス
無罪確定
冤罪の原因
自白強要、鑑定の問題、証拠捏造、見込み捜査
支援
日本弁護士連合会

タイムライン

事件不利有利手続事後
1949.08.06事件発生

弘前市在府町で弘前医科大学教授・松永藤雄の妻Sが深夜に離れで刺殺される。致命傷は左側総頸動脈への刺突

1949.08.22那須隆 逮捕

弘前市警が那須隆(当時25歳)を殺人容疑で逮捕。白ズック靴の血痕鑑定が決め手。殴る蹴る、トイレに行かせない等の拷問があったとされる。弁護士への接見も許されず

捜査:弘前市警察
1949.10.12別件逮捕(銃砲等所持禁止令違反)

勾留期限・鑑定留置期限が過ぎても証拠不十分のため、子供の頃の玩具の拳銃を理由に別件逮捕。10月22日に同じ殺人罪で異例の再逮捕、24日に起訴

1951.01.12一審 無罪

青森地裁弘前支部(豊川博雅裁判長)が殺人について無罪判決。しかし理由を「犯罪の証明なきに帰する」とだけ述べ一切の説明を加えなかった。検察は控訴

1952.05.31控訴審 懲役15年(逆転有罪)

仙台高裁(中兼謙吉裁判長)が古畑種基教授の血痕鑑定(98.5%の確率でSの血液)を全面採用し逆転有罪。検察が撤回した「変態性欲者」との丸井鑑定も「経験則に反しない」として採用

1953.02.19最高裁 上告棄却・有罪確定

最高裁第一小法廷(岩松三郎裁判長)が上告棄却。那須は秋田刑務所に収監

1963.01.18仮釈放

10年間服役。仮釈放の面接で犯行を否認し続けたため6回却下された末、7回目で仮釈放。獄中の作業賃金は全て訴訟費用に消えた

1971.05.28真犯人X 名乗り出る

事件当時の那須の知人であった男Xが真犯人として名乗り出る。読売新聞記者・井上安正らが追跡取材を開始

1971.07.13再審請求

南出一雄弁護士を中心に30人体制の弁護団を結成し仙台高裁に再審請求。日弁連も正式に支援を開始

1972.03現場検証:Xが未知の井戸を指摘

裁判官同席の現場検証でXが犯行を再現。改築前の廊下の幅の違いを指摘し、20年間誰も知らなかった井戸の跡を発見させる「秘密の暴露」

1974.12.13再審請求 棄却

仙台高裁刑事第一部が再審請求を棄却。「有罪判決は疑わしいが、無罪を証明する明白性を欠く」。弁護側は異議申立て

1976.07.13再審開始決定

1975年の白鳥決定(「疑わしいときは被告人の利益に」の原則を再審にも適用)を受け、仙台高裁刑事第二部(三浦克巳裁判長)が再審開始を決定

1977.02.15再審無罪

仙台高裁が那須に無罪判決。白シャツの血痕について「押収された当時には、もともと血痕は附着していなかったのではないか」と証拠捏造を強く示唆。Xの証言は「真犯人であると断定する」。現行刑事訴訟法下の殺人事件で最初の再審無罪

1990.07.20国賠訴訟 最高裁棄却(全面敗訴確定)

一審では検察官の過失が認められたが(冤罪事件初)、控訴審で逆転全面敗訴。最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)が上告棄却。警察・検察・裁判所のいずれからも謝罪はなかった

2008.01.24那須隆 死去

「私が死んでも、誰にも知らせないで欲しい」と言い遺し、84歳で死去。刑事補償1399万6800円は亡父の墓代・再審費用・国賠訴訟費用で全て消えた

事件に関わる言葉

裁判官・当事者・家族・支援者・訴追機関などによって記録・公表された発言のうち、 この事件の理解に重要なものを引用しています。

本人手記より要レビュー

殺人犯でも告白しているのに、警察、検察、裁判官の誰一人として謝罪した者がいない

那須隆冤罪被害者本人1991-03-01

国賠訴訟で全面敗訴した後の1991年3月、知人に宛てた手記より

出典:Wikipedia「弘前大教授夫人殺し事件」弘前大教授夫人殺し事件 記事を読む ↗

参考リンク

参考文献

冤罪白書 2023 Vol.5
冤罪白書 2023 Vol.5
『冤罪白書』編集委員会 (2023) — 書籍

袴田事件の再審開始決定と日野町事件を巻頭特集。鶴見事件・福井女子中学生殺人事件・今西事件・菊池事件・講談社元社員事件・弘前大学教授夫人殺し事件なども収録。燦燈出版。

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